わらいのひ

ダウンタウンは中学の時から好きだった。
そして8時間の生放送のメイン司会。
好きだから嬉しいけどホントにダウンタウンで良かったんかな?って思った。
もしかしたら、どっちかが引退などでフェードアウトする前の花道的な番組なんかな?
とも思った。

今年はcovid-19でみんなが意識せざるおえなかったよね。
生きること死ぬこと
生活のひとつひとつ
心身ともに人との距離
社会のあり方
国としてのあり方
医療 政治 お金

わらいはこんな時どんな形で現れるのか。
笑いだけじゃない。
政治も家族も芸術も宗教も。

最近ずっと頭が痛い。
普通に生活はできる程度の痛さ。
季節の変わり目、気圧、メンタル色々可能性はある。

コロナに罹った人は後遺症がひどく辛いらしい。
少しでもその辛さが分かるような痛さだとありがたい。
もっと辛いだろうけど。

仕事に就けず住まいがなくなったって人のニュースがあってた。
Twitterでは色んな炎上を目の当たりにして、社会の常識が変容していってるって感じてる。


昼間、午前中は障子の大工さんの仕事を眺めてた。
最終的な微調整を見てると色々考えさせられた。
相手に合わせるということ
自分らしさって男らしさ女らしさのらしさとの違い

家の大きさに合わせて大工さんが障子や扉を作る。
微調整できるように現場に持っていく。
横と縦と合うように右左も微妙に対称じゃない。
取手も最後の一つだけ取り付けてなくて左右対称になるように現場で測って取り付ける。

心や魂を磨くってそういうことなんかなと。
合わせることが良いとか悪いとか正しいとか正しくないとかじゃなくて。
結果、人間界ですることは微調整。
それが出来たらどーやねんって感じやけど、私は死んだ後は誰か何かの役に立てる魂ゴーストでありたいから、ちょっと盲目的に立ちはだかる壁と対面した時の動機付けを研磨としてる。
今の自分がダメっていうネガティヴ発想だけど、もっと良くなるためにっていう意味でも対峙したい。
日々・今を生きることに対して。

人や何かに合わせたとして私は私。
だって障子がそれを証明してくれてる。
むしろ家に合うことで障子たらしめてる。
こういう思想は前時代的かもしれんけど。
どう生きるかは自分が決めれるからね。

私はそもそも人や他に合わせることで生きてこれてきた。
今更、(他人と合わせないという意味で)自分を持つというやり方は無理。
無いものを捻り出すとかコピペしか無理。
そういう意味では自分は無いから。

なくても良いじゃん
なくても良いよね
生きてるからこの命に免じて許してよ
って感じ

みんながこれに習えとは思ってない。
自分がある人には羨望だし応援したい。

違いを程よい距離で共存していきたい。
人と違うとすごく足元がぐらつく、自分のメンタルの軟さが困難の原因かもしれん。
けど、これで生きるしかねーんだ。

違いを認める。
非難して炎上することも過程なのかも知れない。
距離を保とう。それが自分の中の唯一の名案。

指紋が1人ずつ違うみたいに幸福観も神観も笑いのツボも違う。
哲学や美学を見知るのは好き。

今日も取り止めもない日記やね。

静寂の常夜灯

covid-19をきっかけに書き始めた走り書き

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